済州島疎開児童(1990年4月 62歳)

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海に消えた 『二十四の瞳』 これは昭和54年10月30日、毎日新聞の夕刊の3版に記載された見出しです。 以下内容について転記します。 第2次大戦の終戦を間近に控えた 昭和20年7月、済州島から集団疎開の児童を乗せた軍用船が朝鮮半島に向かう途中、機雷に触れて沈没。 そのまま海に消えた1教師と、12人の児童の霊が30日、大阪市東区・大阪城公園内の教育塔に34年ぶりにまつられた。 この児童達の名前は、疎開に送り出した学校長が保管していた1冊の手帳に記載してあるだけで、遺族も生年月日も分らない合祀者は初めてと言う。 この日、教育塔前で開かれた 『第44回教育祭』 (日教組主催)に出席したこの学校長は、「これでやっと胸のつかえがおりました。 今後子供達の遺族を探し、このことを伝えたい」 と目をうるませていた。 この人は、大津市古関町5の10、元朝鮮全羅南道 済州南公立国民学校長、小松虎兎丸(ことまる当時42歳)さん(76)。 悲劇が起きたのは 昭和20年7月3日午後11時ごろ。 同校の平川セツ教諭(当時24歳)が、1〜6年生の男女児童14人を引率して朝鮮半島へ疎開するため、軍用船 『豊栄丸』 に乗船したが、同半島木浦港沖合で機雷に触れて爆発し、沈没した。 児童2人は救助されたが、平川教諭と12人の児童など、乗船者の殆どが死亡。 この中には小松さんの妻美代さん(当時35歳)、長女の同校2年、菟美子ちゃん(同7歳)、2女菟代子ちゃん(同5歳)、の家族3人も含まれていた。 当時、日本は沖縄での戦いに破れ、軍部は連合軍側が朝鮮半島、大陸と日本本土を分断する為の拠点として、済州島に攻撃をかけてくると予想。 このため、軍部は島全体を要塞にするため子供や女性に疎開の令を出していたが、小松さんは 『あのとき、みんなを船に乗せなければよかった。 自分が殺したような気がしてならない』 と、悔やんだとい う。
間もなく終戦。 小松さんは、学校の重要書類はすべて処分して、長男英郎さん(当時15歳)と二人で郷里の大津市に戻った。 以下略・・・ この他、これに関連した新聞記事は、『君等と会える! 元校長の悲願実り32年ぶりに三井寺で合同慰霊祭』 が、読売新聞の昭和52年8月14日と16日に。 同じく読売新聞の昭和55年8月12日にも 『爆沈した学童12人、元校長が遺族探し』 と記載されています。 豊栄丸の新聞記事は、京都に在住の済州島南小学校の同窓生の一人から送られて来たものです。 この記事を読んでも、老いた小松校長の遺族にたいして、お詫びがしたいという執念の程が感じられます。 |