昔の我が家(1990年4月 62歳)

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済州市の中心にある観徳亭の前の大通りから、済州港までの一帯は幼かった私のホーム・グランドで、友達の家や日本人町の商店街、山地川等の遊び場が多かったので懐かしい所です。 その頃、済州島で1番偉いのは島司さんで、官舎は平屋建てだったけれど立派な洋館で、塀に囲まれた広い庭には芭蕉等の珍しい熱帯樹もいっぱい茂っていました。 建物は昔のままで、現在の門柱には 「社団法人大韓老人会済州道連合会」 と書かれてありました。 韓国で、看板に漢字が書かれているのは珍しいことです。殆どハングル文字で書かれているからです。 その前を通り、最初の角を曲がった道に、済州島在住時代に私が住んでいた2軒長屋の借家がありました。 手前の家は歯医者さんで、その隣の奥の方の家が、懐かしい私の住み家でした。 私の訪れを待っていたかのように、昔のままで半世紀の風雪に耐えて佇んでいました。 その家に私は小学校3年生の時から、5年生の1学期まで住んでいました。 30代だった若かりし頃の父母と、4人姉妹が喜怒哀楽を共にした懐かしい所です・ 幼い日々の想い出は、何もかも夢のように楽しくて、童話の世界で戯れているようでした。 姉妹喧嘩をして泣いた涙までが、甘く思い出されます。 隣の家に住んでいた カコちゃん と言う同年輩でよく遊んだ女の子は、今は何処でどうしているだろうか? と、ふと脳裏をよぎりました。 この家の間取りは、玄関を入った所が2畳の板の間、右に北向の4畳半の居間と台所、奥には床の間付の6畳の座敷と居間が2間続きで、南には通し廊下がありました。 廊下の前には小庭もあり、南向きの廊下からは紫色に聳える漢拏山の勇姿が、くっきりと眺められました。 新築の借家で居住性は抜群でした。 生活用水は、まだ水道は完備していなかったけれど、屋根の雨水を樋で受け、大きなタンクに集め、下に蛇口があって使用していました。 飲み水だけは毎日、漢拏山の湧き水をリヤカーで運んできてもらっていました。 今の済州市は、水道が完備しているので、水に不自由は無いようです。 水源は漢拏山そのものが多孔質の溶岩なので自然の貯水槽となっているので、渇水する事は無いようです。 外見はそのままなので、玄関の戸を開けて 「ただいま〜っ」 と言ったら、 「おかえり〜っ」 と母が返事をしてくれるような錯覚さえして、その場に長い間佇んで、じっと眺めていました。 済州島まで、はるばるとやって来た目的の大部分が、思い出に残る、この家を見ることったのですから・・・ ガイドさんが来られたので、「家の中を見たいのですけれど・・・」 と頼んでみると、気軽に韓国語で声をかけて戸を開けてくれました。 戸を開けて中の様子を見てビックリしました。 以前は2軒だったのが境の壁を取り払って、1軒になっていました。 奥の畳の部屋は改造されて洋間になり、応接セットも置かれていました。 中から出てきたのは若い主婦で、ガイドさんが多分、「元ここに住んでいた日本人が尋ねて来たので、中を見せてほしい」 と言う意味のことを言ったのだと思います。 それに対して、この家の人は怖い表情で、何か言っていました。 あまり良い感じは持たなかったので、ガイドさんに 「何と言ったのですか?」 と尋ねたら 「この家は、お金を出して買ったのだから、私の物だ」 と言ったというので、ガイドさんは否定して説明したようだけれど、そのまま奥に入って出てきませんでした。 元の家主が取り返しに来たと勘違いしたようです。 元々借家だし、私は昭和13年にこの家を離れたので、その後どんな経緯で現在の住人に渡ったのか、知る由も有りません。 でも、この家の人は、日本人に好感を持っていないことだけは確かでした。 この辺りの日本人町は、殆ど昔と変わっていませんでした。 元の日本人町の商店街も、そっくりそのままで、違っているのは看板の文字がハングル文字になっているだけでした。 訪問団の人達は、元の日本人町を歩きながら、 「ここは誰々さんの家よ」 とか、 「何々ちゃんの家があった〜!」 と、歓声を上げていました。 中には、かつての自分の家の前で、ハンカチを眼に当てている人もありました。 この町で商売をしていた人達は、ここに永住するつもりで祖父の代から移り住み、訪問団の人達はこの町で生まれた人達が大部分なのです。 私のように、韓国内を方々流浪したものに比べて、望郷の思いも格段と深かったのではないかと推察されます。 |